戦国武将の山越え路
三重県と滋賀県境につらなる鈴鹿山系の峠越えの山路は、戦国時代の群雄割拠する武将たちにとって、戦略上に欠くことの出来ない間道であったことはあまり知られていない。そこで、戦国の歴史と三重県北勢部の勢力抗争を郷土史書に関連させながら、山系越えの武将たちの姿として追ってみる。
戦国時代、それは応仁の乱に始まる守護大名の家臣勢力増強から、次第に下克上の風潮を生んで一世紀にもおよんだ戦乱の時代であった。十六世紀の中頃になると、独立した封建小国が次第に統括され、中でも北条氏・今川氏・武田氏・上杉氏・島津氏などが力をつけてきた。が、全国制覇の運はその他の戦国大名も含めて、すべて平等に存在した。こうした中で、その幸運をつかんだのが織田信長である。彼は天正元年(1573)京都に上り室町幕府を亡ぼし、天正四年(1576)近江に安土城を築いたということは周知の歴史である。
三重県の地は、当時、北勢の関氏・工藤氏・神戸氏、中南勢に南北朝以来の北畠氏が大きな勢力を持っていたが、幾多の独立した封建小国の乱立であったことは他国と変わることがなかった。しかも北勢において、宗教王国としての伊勢長島真宗願証寺が存在した。この宗教王国の門徒は十万余名といわれ、何かことあらば、その総ての信徒が武装できるという特性を持っていた。
日本統一の血気盛んな信長にとって、武田氏や朝倉氏それに毛利氏と一戦交えるためにも、その足もとの伊勢の地を自分の支配下にしておく必要があり、ことに北勢の宗教王国は危険な存在となっていた。この宗教王国を含む伊勢を支配下に入れようと考えたのは、信長だけではなかった。のちに信長に抗して永禄十一年(1568)に滅亡した近江の佐々木義賢(ささきよしかた・佐々木六角)もその一人であった。
佐々木氏はその一党であった蒲生氏の娘が伊勢の関氏に嫁いだことを利用して、北勢域に勢力を扶植しようとした。佐々木氏の軍はこの動きの中で、鈴鹿山系の千草越え(杉峠1036m・根の平峠803m)山路を使ったと想定できる。それは弘治元年(1555)に佐々木家臣の小倉三河守が、三重郡の千草城(千草顕季)を攻める記事として『勢陽雑記』に、
弘治元年乙卯年三月近江の国六角左京太夫源義賢(宇多天皇御胤佐々木
源三秀義の嫡流、幕の紋四つ目結也。)伊勢国をとらんとて小倉三河守に三千余騎を相添へ、先千草の城を攻めつける千草家武威をはげまし防ぎ戦ふ。
(弘治元年(1555)三月、近江の佐々木義賢が伊勢国を取ろうと小倉三河守に三千騎をあたえて、千草城を攻める。これに対して千草家もよく防戦した。)
とみられることによる。すなわち、当時、桑名・白瀬・員弁・富田・朝明・三重・楠・赤堀の各氏四十八家が千草氏の支配下であったことから、北勢の平野を進んで千草氏を攻めることは危険であり、ここに山越え以外にないと思われるからである。またその翌年に千草越えと八風峠(938m)越えを利用して軍を伊勢に送り込み、柿ノ城(三重郡朝日町柿)を攻めていることが『伊勢国誌』に紹介されることもそれを裏付ける。佐々木義賢は、その執権後藤但馬守の弟を養子にし、彼を千草三郎左衛門として千草城に派遣していることからすると、伊勢への執念のほどが知れる。
鈴鹿山系周域の地図を開いてみると、八風峠越えと千草峠越えの山路は、近江と伊勢を結ぶ交通要路であり、周囲の国々に知られずして軍を移動させるのにこれほど良いコースはないと改めて知る。

信長の伊勢攻略の話に入るが、それは永禄十年(1567)に滝川一益(たきがわかずます)を派遣したことに始まる。このときのことについて『勢陽雑記』の「信長初長嶋発向事」に、
滝川やがて長嶋、桑名、多度、辺に徘徊し、或は、攻取り、或は降参させ、員弁、桑名、両郡の侍、上木、木俣、持福等過半随ひければ滝川濃州へ帰陣しける。
(滝川一益は、桑名や多度を徘徊しながらこの一帯を降伏させ配下にした。こうして北勢域を従わせたので滝川は美濃に帰った。)
と記している。一説によればこの滝川軍は、長島の一向宗勢力をさけて鈴鹿山系と養老山地の谷間の迂回し北勢に入ったといわれている。
信長が長島一向勢力を本気になって撲滅しようとの行動に転じたのは、長島側が石山本願寺との関係を強めた元亀年間(1570〜1572)であり、それは天正二年(1574)まで続いた。
信長の鈴鹿山系越えで、なんといっても欠くことの出来ない事件は、『兵乱記』に紹介される信長暗殺計画であろう。
杉谷より江_根平越側に 円通寺住僧善住坊 鳥銃(てっぽう)を能す。
元亀元年五月 信長江_発向し、 此所を通り玉ふ時 佐々木承禎 善住坊に下知し 信長を為討 鳥銃にて討損す。信長危所を遁し 岐阜に帰り給ふ。後 事顕れて天正三年 磯野丹波守に命じで 善住坊を殺る。
(根の平越えの杉谷円通寺に住む善住坊は、鉄砲の名手であった。元亀元年(1570)五月に、近江を立って根の平峠越えで信長が通るとき、佐々木義賢(承禎)は善住坊に命じてこれを狙わせたが打ち損じた。信長にとって危険な出来事であったが、無事に岐阜に帰り着いた。後に、この事件の真相が明確となり、天正三年(1575)に磯野丹波守に命じて善住坊を殺させた。)
との記事がそれである。『淡海温故録』や『信長公記』にもみられ、郷土の古書にも多く紹介されるのでもう少し詳しくふれておこう。
信長にとってこの仕掛けられた策略は、京都本能寺における家臣明智光秀の謀叛に次ぐ不覚ともいえる。『勢陽雑記』には公記をはじめとする幾多の資料も含み、地誌としてこの事件を詳しく記している。
杉谷、桑名より西、行程五里。江州根平越のこなた、千種村の北に在り。
当村に円通寺という禅寺の住持善住坊といいける悪僧あり、よく鉄砲をうちける。元亀元年九月二十一日織田信長公江州へ発向あ有て、蒲生右衛太夫賢秀等を嚮導として、千種越に岐阜へ赴き給ふ。佐々木承禎彼の善住坊に仰せて、鉄砲にてねらはしむ。善住坊二ツ玉を込み、千種越のこなたの麓な九尾という山の、矢頃よき木陰に待受け放ちける。
常にはさげ針をもあやまたぬ手きき成けるが、彼の運よかりけるにや、信長公の帷子の両袖に当り、其身恙なかりけると也。或云う からかさの柄にあたると云々。諸卒驚き山中に分け入り尋ねれ共捕り。得二十一日岐阜に入給ふ。天正三年九月磯野丹波守、鉄砲打放ちける者は善住坊なる事を聞き、則、搦め捕り 信長公へ献ず。立ながら土中に埋み、竹鋸にて首を挽かせるが七日にて死すと云。
(杉谷は桑名の西側五里のところにある。それは近江に通じる根の平越えのこちらで、千草村の北にあたる。その村の円通寺という禅宗の寺院には、善住坊という鉄砲の名手で悪い僧侶が住んでいた。
元亀元年(1570)九月に、織田信長は近江を出発し、蒲生賢秀(がもうかたひで)らを道案内に立てて千草越えで鈴鹿山系を横切り伊勢経由で岐阜に帰った。佐々木義賢(承禎)は、この時に善住坊に命じて鉄砲で信長を狙わせた。
善住坊は、二ツ弾を込めて千草越えの麓の陰で信長を待ち受けた。普段なら針の穴も貫く名手であるのに、弾丸は信長の両袖を貫いただけであった。<一説には唐かさの柄に当たったとも伝えられる。>家臣は驚き山中に犯人を探し、一方、信長は急いで岐阜に帰った。
天正三年(1575)九月になって、磯野丹波守は鉄砲を打った犯人が善住坊であることを聞きこみ、これを捕らえて信長につき出した。そして善住坊には、その罪によって土中埋められ竹のこぎりで首をひくという処刑がなされ、七日目に死んだ。)
軍記や公記と併せてこの事件をみると、信長が元亀元年に朝倉義景や佐々木義賢の討伐に出かけたことに端を発している。信長軍は、討伐に出かけたものの浅井氏や佐々木氏の軍によって逆に後方を包囲されたために、取り急ぎ京都に戻った。しかし、京都から岐阜への道はすべて両氏らの手中となってしまっていた。そこで信長は、やむなく蒲生の日野城主である蒲生賢秀とともに鈴鹿山系麓甲津畑の六左衛門を案内人として千草越えをしたため、この罠にかかった。
善住坊という僧侶については、甲賀五十三家中の一家の者とも伝承されているが明確ではない。また、善住坊は自分の娘が佐々木義賢の妾であったために、信長暗殺役を引き受けたのだとも伝えられている。
最初、善住坊は成願寺の峯にこもって信長を狙ったものの不首尾に終わり、再び千草越えにおいて狙撃したといわれる。百発百中の善住坊がなぜ打ち損じたのかということについて、今となっては誰にもわからない。とにかく信長はここで九死に一生を得、その後の天正元年(1573)に浅井氏と朝倉氏を破り、同三年に三河の長篠の戦に甲斐の武田軍を撃破し、その後は中部一帯から中国地方の大半を統一していった。
信長が鈴鹿山系越えをしたのは、実はこの時だけではなかった。それ以前にも隠密に京都に上った時、美濃の斎藤氏より刺客が出ていることを知り、山系越えで伊勢を経由し、難を逃れ無事帰り着いたこともある。この時のことが『信長公記』に、
あい谷(相谷)よりはっぷう峠越、清洲まで二十七里、其日寅刻に御参着也。
(信長は、相谷より八風峠を越えて清洲(信長勃興の地で現在の愛知県春日井市)までの二十七里を、その日のうちに帰り着いた。)
と記されているが、時は永禄元年(1558)のことである。
戦国末期の天正十年(1582)、本能寺の変で信長は自害した。彼の残した統一政権は秀吉に受け継がれたが、秀吉は信長の旧臣を次々に倒しはじめた。それは伊勢の地においても例外ではなかった。
秀吉軍は、天正十一年(1583)に滝川一益を、また亀山城にたてこもった佐治新助を攻めた。ここにおいて重要なことは、秀吉軍のこの伊勢攻めに利用された進軍コースが鈴鹿山系越えであったということである。
ことに奇襲戦のため雪積もる治田峠(はったとうげ・760m)と安楽峠(494m)を越えさせていることは注目すべきことである。『勢陽雑記』に紹介されるところによると、
天正十一癸未年正月 羽柴秀吉公、柴田勝家、滝川一益を退治せん事を謀り給ふ。残雪深きうちに、先勢州へ発向し、滝川を攻亡ぼし、三月に至って柴田と一戦を可遂と憶念して、正月二十三日七万五千余騎の軍兵を率して、三手に分って勢州へ赴き給ふ。
一手は土岐多羅口より員弁郡へ、一手は君ヶ畑越にて員弁郡へ、一手は安楽越にて鈴鹿郡へ、諸卒各持口より攻入りけり。正月二十六日の朝、蒲生氏郷、関父子等、佐治新助が立て籠りし亀山城を取巻き攻めける程に佐治防きかね、城を開き引退く。
(天正十一年(1583)正月、豊臣秀吉は、柴田勝家や滝川一益ら織田家臣を攻撃しようと計画をする。それは残雪の深い間に伊勢に入って滝川を亡ぼし、三月になって北陸の柴田と一戦交えようというものである。正月に七万五千余騎をひきつれて近江側から三方に分かれて山越えで伊勢に攻め入った。一手は土岐多羅を越え、一手は君ヶ畑を越えて員弁郡に入り、最後の一手は安楽越えで鈴鹿郡へと入り込んだ。三日後の朝には蒲生氏郷等が亀山城にたてこもった佐治新助を攻めて城を開放させ、これをもって伊勢を手中にした。)
となっている。ここで前文中のコース紹介をしておこう。まず土岐多羅越であるが『三国地誌』に、
山口村より美濃国界に至る一里十六町、篠立村より同郡土岐へ三十五町
と記される関ヶ原−多良−美濃国時−立田のコースである。君ヶ畑越えは治田越えともいわれ、御池川最上流の君ヶ畑−治田峠−北勢の新町とのコース。安楽越えとは鈴鹿峠(378m)のすぐ北側の山越え路である。
秀吉軍は、甲冑に身をかためさせた七万五千余の大軍を雪積もるこの三つの山系越えで行軍させて勝利を得た。こうして秀吉もまた信長同様に足もとの伊勢の地を完全に固め、そののち、統一のための遠征を始めた。伊勢攻略と同年の四月には北陸の柴田勝家を賤ヶ岳の合戦の末破り、その勢いで北陸一円を手中におさめ、ここに日本海から伊勢湾にぬける日本の一番狭い地を支配し、日本を二つに分断した。続いて西日本に軍を向け、中国地方や四国の織田旧臣を倒し、さらに九州の島津氏をも服従させた。西の地を配下におさめた秀吉は、次に鋒先を東に向けて東国の最大の勢力者である小田原の北条氏を天正十八年(1590)に降伏させて天下の統一をほぼ完成させた。

彼ら戦国武将が天下統一の任を果たすためには、信長や秀吉の戦略から知れるように、越前−近江・美濃−尾張−伊勢との縦のラインを確保し、まず日本を東西真っぷたつに分断することがポイントとなっている。そしてこの分断策戦上最初に必要な伊勢の地を手中におさめるために、鈴鹿山系をいかに利用するかが問題というか焦点となったといっても過言ではない。
戦国時代は終わりかけていた。しかし慶長三年(1598)未だ豊臣政権の基礎が固まらない中で秀吉が世を去った。ここに再び諸大名の間に争いが起こりかけたものの、徳川家康がすばやく主導権を握った。そして彼は、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦によって反対派の総てを打ち破り、江戸幕府を開いて戦国の幕を閉じさせた。
関が原の戦において西軍は惨敗を喫したわけであるが、こうした中で島津勢は九州に逃れる道として鈴鹿山系北端の五僧峠を選んだ。『近江国輿地誌』の五僧峠(500m)の条に、
それまでは知る人なかりしに、島津初めて通路せし故に、島津越とはいふなり
と記され、参戦から退却について、
慶長五年 石田治部少輔三成叛逆して、秀頼の命に託て、諸将を招く。
島津兵庫頭義弘、彼が招に応じ、軍を美濃の関が原に発す。九月十五日、義弘軍を進まんとする時に、松尾山に備へし秀秋等の五将、怱叛いてうら切す。爰におゐて惣軍敗走す。島津、横に田中・金森の軍をうつす。兵鋒甚だ鋭し。田中・金森の軍狼狽す。義弘爰におゐて倒さんとす。黒田長政・細川忠興・加藤嘉明等、是を過(よぎ)り留んとす。島津が軍士、みな下り敷て鳥銃を放つ。亦、敢て敵すべからず。
黒田・細川等の軍卒、死亡するものあげてかぞふべからず。神祖(家康公)堅く制して、島津が軍を留る事なからしむ。義弘、其臣入江権右衛門を先駆として、南の方一の瀬・土岐多良山に馳せ、五僧・保月の山路を歴て、近江の国多賀に出、旌旗もなければ、牛一匹を打殺し、その皮を馬印として人数を纒めかへりしといふはこの路なり。
(慶長五年(1600)、石田三成が豊臣秀頼の命によって徳川家康に叛逆し、諸国の武将を集め挙兵して関ヶ原の戦となった。薩摩の島津義弘(しまづよしひろ)は石田三成の招きで軍を美濃の関ヶ原に出して戦ったが、九月十五日に松尾山に備えていた五人の武将が裏切りをしたため西軍は敗走した。島津氏等は軍を移して戦ったが、いよいよ激しく、鉄砲を放つが黒田軍や細川軍との戦によって死亡する者が続出し、その数は数えることが出来ないほどであった。
徳川家康は、島津軍の陣をこの戦いの中で安定させなかった。結局、島津軍は入江権右衛門を先頭にして南に下り、土岐多良から五僧峠を越えて保月へと山路経由で近江の多賀へ逃れた。
旗もなく、牛を殺してその皮を印にし、島津軍がちりぢりにならないようにして逃れたというのがこの五僧峠越えの山路である。)
参考資料/戦国末期と鈴鹿山系(リンク:word文書)と紹介している。伝承によれば、この峠路を越えて多賀から堺に出、そこから海路で国に帰り着いたという。
戦国末期の日本史の中で、鈴鹿山系越えは武将たちにとって難を逃れる山路の色も濃い。江戸幕府開設者の家康もその経験者の一人であった。その昔、近江の一揆に悩まされた家康は、琵琶湖の西側から舟でこれを渡り、敵とのかかわりによって退路を鈴鹿山系の千草越えとし、根の平峠を通って伊勢に出て三河に戻ったこともある。
千メートル級の鈴鹿の連山、その鞍部をアルプスのそれに比べれば低い。しかしこの鞍部を時には難を逃れるために、また進軍のためのコースとして戦国武将たちは利用した。日本の戦国史をみる中で、陰の戦場とみることの出来る鈴鹿山系には私たちがまだ知ることの出来ない一面があるのだろう。