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みえ食文化研究会での講演と出版

 平成27628日(日)、みえ食文化研究会の総会時に講演会を開催、「三重県の人の一生と食事」と題して私が講師を務めた。“三重ふるさと新聞”が事前に記事掲載をしてくれたお陰もあって、70名近い聴講者となった。1時間半の講演を終え、研究会で出した『続 千彩万彩』と題した三重県の食材辞典の出版記念会は、会員それぞれが作った郷土料理の試食会を兼ねて催された。8年前に第1号『千彩万彩』を出した時と同様、今回も岡田財団から百万円の補助金を得ての出版であった。

この研究会は、平成10年の県生活文化課の事業で、成田三重大学名誉教授と私が3年後には独立させる前提で引き受けて設立した。今は共に県の中核逸材となられたが、当初依頼にみえた若い県職員と2代目県職員の2人が、監事を引き受けてこの会を見守ってくれている。その1人は出版記念が終わった直後になったが、公務を終えて駆けつけてくれた。2人揃っての出席に、嬉しい限りである。

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『三重県の食生活と食文化』

三重県の食生活と食文化 『三重県の食生活と食文化』

大川吉崇著(調理栄養教育公社)・2008年2月出版・503頁・2,940円税込み

目 次

1.概論:三重の風土と食文化
2.三重県すし百科
3.三重雑煮考(後に全文掲載)
4.餅・菓子・おやつ
5.魚の通った道
6.宗教行事と飲食文化
7.緑茶と紅茶
8.三重県における人の一生と食事
9.人生儀礼食に見える背景
10.各地の食の民俗調査
11.特産品の背景
12.郷土特産メモ
あとがき
参考文献


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三重雑煮考─郷土の民衆文化を雑煮から見る─【1】

【1】分水嶺三重

 三重県は、民俗学からはもちろん、郷土史の面から、また植物や昆虫の分野から見ても実に楽しくユニークな姿が浮かび上がってくる。何が楽しいかと言えば、昭和10年頃までの生活文化事象を地図に書き込んでみると、幾つかの異なった文化が地域別に浮かび上がってくるのである。そしてそれは、長い歴史の跡とか、風土との関わりとか、あるいは近隣の大都市への憧れが感じられるものと、様々である。
 歴史で言えば、戦国時代末期の武将信長により天下統一は、伊勢長島願証寺の一向宗や南勢の北畠氏対策は苦戦を予想して長期対策として構える。だが一方では、軍を近江側から三手に分けて鈴鹿山系越えで一気に北勢及び中勢になだれ込ませて配下に収め、のち、北陸攻めをして東西の諸大名の分断を行って天下取りにかかっている。時代を遡れば、壬申の乱の大海人王子の大津宮倒しも、同山系の南と北の峠路封鎖策で、東国の勢力を抑え、逆に援軍を得て勝利に導く。過去の歴史の中で、三重県は事を起こすキーポイントであると共に、東西諸国の分水嶺として位置しているのである。自然界の動植物をとっても、同様の面が分布図に浮かび上がって、東西文化の分水嶺としての三重県の姿が出るはずであるが、従来その視点を教育の中で取り上げ、強調されることはほとんどなかった。ここでは、雑煮を多角的に追いかけ、三重県の置かれた民衆の文化状況を探ることとする。

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三重雑煮考─郷土の民衆文化を雑煮から見る─【2】

【2】考察の視点

 従来の民俗調査の主流は、三重県下の雑煮について見ると、丸餅か角餅、或いはすまし汁か味噌汁かの視点で行われている。最もこの視点は大切なことである。先学のフィールドの報告書にはほとんどがこの二点だが、その他の項目については断片的に紹介している程度である。第一歩から資料集めにアンケート調査を手紙方式で行うとの方法もある。しかし、これは回答者が75歳以上(平成4年現在)で、しかもその地で生まれ育った人であるという条件が必要である。また、回答者の記録内容の時代設定ほかが確認出来ないなど、様々な面で不安があるためこの調査方法は取り上げないこととする。
 三重県の場合、昭和50年までの民俗調査資料は食生活報告が極めて簡素なもので、雑煮に関して見ると多くは「雑煮で祝う」との表現であり、50年代に入ってからは県当局挙げての調査が全くと言ってよいほどに停滞したため、必要とする資料集めには苦戦をしいられることになる。しかしながら、過去の生活体験者の多い時代にフィールドで起こした報告書と私が直接調査したものを資料として、雑煮文化分布図を作製しつつ考察することにする。
 分布図作製のための時代設定だが、大正時代から昭和10年頃までの食生活と幾分幅を持たせることにする。この時代は、それぞれの地区の郷土性が極めて大切に継承されてきた時代だからである。
 三重県下の分類のための視点については、以下の5点とする。第一の視点は「餅の形状」で、熨斗餅を切った角餅系か、ちぎって丸くして抑えた丸餅系かである。丸餅とは「こもち(小餅)」と地区によって呼ばれるものである。伊賀地区において「はなびら」とか「花びら餅」、また、熊野市北部において「えくぼ餅」とか「押し餅」と呼ばれる板の上や蓙(ござ)の上でさらに手の甲でぐっと押さえて中央部分を凹ませた幾分薄い餅も丸餅に含むこととする。
 丸餅は関西、即ち西の文化圏を表し、熨斗(のし)て角に切った餅は関東、即ち東の文化圏を表している。東の文化は何事も西の文化、即ち公家社会と対比させ、一面では武家社会として簡略化第一主義を旨としている。この視点をつかって三重県を見る。
 第二の視点は「味付けのベース」である。大部分は、溜まりや醤油によるすまし汁系であるか、また、味噌を溶かした味噌汁系かである。雑煮とは、「正月三が日の朝に食べる、祝い餅に具を伴った熱い汁」と、ここでは位置付ける。すると県内にはその他のベースとして、小豆汁系のものも見られるのでそれも加える。第三の視点は、加える「具の種類」である。なっぱ(菜葉)と呼ばれる青菜系か、大根と里芋系か、豆腐やその他の野菜を加える多種野菜系かである。第四の視点は「餅の原料」で、雑煮に糯米(もちまい)以外のたがね餅や団子餅を使うか否かである。第五の視点は「餅の調理方法」で、水炊きするか、湯炊きするか、焼くかである。
 第一と第二の前半の視点のものは、昭和40年代に三重県教育委員会が伊勢民俗学会に調査委託したものを51年に『三重県民俗地図』として発表しているため、これを参考としていくこととする。これらの各視点を織り交ぜ、資料を収集・整理し、私の調査結果と併せて表を作り、市町村単位にできるだけまとめて地図に書き込む作業を行う。出来上がった分布図を基に、街道といった地理やその地域の歴史を考察の材料に加え、最後にブロック別に線引きをし、そのブロックに私流に命名をするという手順で作業を進めることとする。


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三重雑煮考─郷土の民衆文化を雑煮から見る─【3】

【3】ブロック別に見た雑煮とその背景

(1)北勢地域

 北勢地域は、遠い昔、揖斐川・長良川・木曽川という三大河川の関係から、隣国の尾張よりも山越えの近江文化の影響を受けていたはずである。時代が下がって、幕政時代末期になってもそれは同様である。農民を始めとする民衆にとっては、皇族や大名、そして商人や一般旅人のように、伊勢湾を船で渡るとか三大河川を日々の生活の中で渡ることは殆どなかったと考える。庶民にとっての情報は、商人によるところであり、積立がたまると出せる講の旅による代表者からであったと考えられる。商人は本街道を使うより、間道を越えての往来である。ことに桑名とか四日市を考えると、鈴鹿山系中の治田峠越え、石樽峠越え、八風峠越え、杉峠からの根ノ平峠越え、安楽峠越えを使用したようである。この峠越えは近江商人が東国に行くためいったん桑名に出ることでも知られるが、それは関所の関連というより最短距離という理由である。『東海道中膝栗毛』・『勢陽五鈴遺饗』の桑名の条に見られることからも知ることが出来るように、桑名の宿は近江商人や伊勢商人のおかげもあって繁華な商業都市となっている。そして農民は、近江商人や伊勢の商人によって他の地域の生活や生産情報を得ていたのである。この背景から近江文化の影響による雑煮が北勢地域に認められるはずなのだが、資料を見ると、員弁郡藤原町を始めとする鈴鹿山麓を除くと、伊勢平野にその跡はない。近江も湖東や湖南の神崎郡や蒲生郡といった地域は、『滋賀の食事』にも紹介される「はまぐり餅」と呼ばれる丸餅が使われているからであり、すまし汁地区もあるが味噌汁地区もあり、具も大根の半月切りや細の目切りそれに里芋が入る地区である。
 北勢地域の雑煮は、別表のようになる。すなわち、鈴鹿峠と同山系の仙ヶ岳の中間点から亀山市の北側そして鈴鹿市を結ぶ線を東西に引くと、その北側は角餅ですまし汁の雑煮圏となる。しかもこの地区は、員弁郡を除けば「正月菜」と呼んで小松菜やホウレンソウ等の青菜を入れるのである。餅は湯炊きである。このように見てくると、北勢地区の雑煮は日本の中で最も簡素と言われる名古屋雑煮と同じものとなる。名古屋の雑煮は、『愛知の食事』にも紹介されるように、角餅を使い、溜まり仕立てのすまし汁、具は正月菜とかもち菜と呼ばれる青菜を茹でておいたものを用い、食べる時にかつお節を削ってかけるのである。近江文化ではなく、名古屋文化圏の雑煮が何故ここに有るのかとの疑問が生まれる。どうも、昭和初期頃との時代設定による資料収集とかかわりがあるようである。
 時代を安土・桃山時代まで遡って木曽三川を見ると、そこは川の流れが入り乱れた中に輪中が幾つも点在しているそれと関係があるのかも知れない。即ち伊勢湾の海を渡って熱田へ行くより安易なルートがそこに見えてくる。江戸時代における桑名と津島の交易である。小船であっても輪中のわきを通りながら川を行き来する方が安全ゆえ、商人のみならず庶民の往来がそこに見られる。ここに、尾張(名古屋)文化の当県への流入が考えられる。
 三重県北部の一般庶民(農民を含む)が名古屋市へと気楽に足を運べるための更なる条件が必要となる。明治28年に木曽三川に鉄道が掛かり、鉄道が桑名市・四日市市・亀山市を経由して、名古屋市と草津市を結んだこととの関連と考えられる。大都市への憧れが、三大河川の架橋以来、一挙に距離を縮め、庶民の往来を可能にし、生活や文化に急激な影響を受けるようになったと考えられる。  名古屋の質素倹約は尾張藩の精神そのものであると一般に言われている。しかしこの雑煮は、尾張藩主徳川宗春ではないが、開放都市、歓楽都市として急激な賑国策をとり、華やかでしかも尾張ならではの精錬された文化を求めた時代があることと関連するのかも知れない。名古屋に於ける抹茶の伝統的普及をも考え併せると、即ち総ての田舎臭さを取り除いた結果としての、すっきりした美形を求めた雑煮ではなかったかと考えるのである。
 北勢地域の雑煮は、時代による当地域の生活と大都市への憧れがあいまって普及したのであろう。そこでこの地域の雑煮を「尾張文化雑煮圏」と名付けることとする。



 

(2)中勢地域

 中勢地域は、伊勢平野の中央農耕地帯で、町内を除けば、伊勢湾沿岸から山に至るまで、年中日々の農耕労働に追われる人々の生活がある。この一帯の雑煮は別表のようになっている。 このような資料から見ると、角餅で味噌汁の雑煮圏で、次の南勢地域の資料等を含めて整理すると、その南限は松阪市と考えられる。ただし、松阪市は角餅ですまし汁の複合地域という見方が出来る。次に、中勢地域の雑煮を特色として位置づけられるものは、具であり、雑煮の作り方である。
 中勢地域の味噌汁雑煮の具は、旧鈴鹿郡・亀山市から旧安芸郡・津市・旧久居市・旧一志郡・松阪市までが大根と里芋である。ただし松阪市に複合するすまし汁の方はなっぱ(菜葉)である。しかもいずれの地域も、味噌汁に入れる大根はその昔には幾分厚めの輪切りであり、里芋は丸のままが原則である。暮れに大根と里芋を味噌汁に入れ、2時間ほど弱火で煮詰め、正月三が日食べる分の濃いどろりとした具入り味噌汁とする津市高野尾地区もある。すなわち、濃縮味噌汁で、当然、具である大根も里芋も真っ黒で柔らかいものとなる。元旦の朝、これを家族が食べる分だけ別鍋に取り、そこに若水を加え、温めてから角餅を入れて仕上げる雑煮である。中勢地域では、冬場に3日から1週間程度使う味噌汁を作り置くところが多い。作った味噌汁の保管は、大鍋にそのまま置いておくところも多いものの、安濃町では鉄の臭いがつくとして桶に移す家もある。鈴鹿市稲生町の事例では『三重の食事』に瓶(かめ)に入れることが紹介されている。
 普段にも、この味噌汁を作り、朝に晩にと別鍋にとって水で薄め、温めて食べる味噌汁食である。日々の農耕生活では暗い間に家を出て田畑仕事をし、暗くなる頃に家に戻るため、仕事を終えた夜に作っておいて食べる時に手間暇を必要としない味噌汁を考案したのである。同じ濃縮味噌汁でも、正月の注(さ)し水は家長が早朝に汲む若水であり、これに餅が入ることで、お祝いものとなる。地区によっては、これを正月7日の菜粥の日まで食べる。
 津市の農家の古老は、「正月早々泣くのかなわんというたものや」と、鈴鹿市では「菜っぱは無しに通じる」と言う。言葉による連想から来る「泣く」と「菜を食う」であり、「無し」で、これを避けたのである。またケとハレが同じ具であっても、ハレになると意味合いが生じ、大根の輪切りや里芋の姿形は「まるうなるように」と温かみある人柄への正月から始まる1年の心得となり、里芋は八つ頭の代用で「子だくさん」の家の繁栄と、「人の頭に立てるように」との願いとなる。民俗学では普段の日を「ケ」、特別は日を「ハレ」と言う。鈴鹿市における同種の雑煮では、「大根は一家が1年丸く治まるように」との願いとなっているが、この地の雑煮の具は大根の輪切りだけである。
 ここにあげた濃縮味噌汁を、津市高野尾地区や同市雲出地区では、大根の輪切りの状態から濃縮味噌汁は「大八車」との呼称を付けている。中勢地域は、北勢のように名古屋文化の影響を受けず、農耕地帯の労働の中で誕生させ、それを脈々と受け継いできたことから、ここでの雑煮を「農耕土俗文化雑煮圏」と名付けることにする。



 

 

(3)南勢地域

 松阪市地区は、角餅で味噌汁が主流である。松阪市の一部、多気郡・飯南郡そして度会郡の山間地帯は角餅のすまし汁である。伊勢市になると共通地区も一部あるが、多くは調理方法ががらりと変化することと、後述するように神宮という聖域との関わりもあるため、南勢地域の雑煮圏からここでは伊勢市を省き、別枠とすることにする。
 南勢地域の雑煮圏は、松阪市内が中勢地域の雑煮と重複するため、櫛田川沿いの和歌山街道と宮川沿いに熊野街道の間と考えることが出来る。街道を見ると、前者はその昔の伊勢詣でのための伊勢本街道で難波(なにわ)の人々びとの伊勢信仰の道であり、後者は熊野信仰の道である。共に山間部の谷間を通り、峠を越える道であり、全てではないがこの地域の雑煮の具に共通的特色を見ることが出来る。松阪市や多気郡勢和村のすまし汁の雑煮の場合は伊勢市と同様、菜葉が入る。『勢和村の民俗』によればこの地区の具も杓子菜・水菜・相可菜・葱などの適当なものとあり、伊勢市と共通する。しかし、二つの信仰の道筋は、どちらかというと具の種類はいくつかと賑やかになる地区が多い。多気町の場合、『度会多気山村習俗調査報告書』によれば油揚げ・切り昆布・牛蒡・人参・大根・豆腐・葱となるか、葱・豆腐・油揚げ・里芋・白菜・蒲鉾(かまぼこ)・蒟蒻(こんにゃく)等から幾種類か入るのである。旧紀勢町の熊野街道沿いを同書に見ると、里芋・油揚げ・人参・大根・蒟蒻・葱、あるいは、上記の蒟蒻が抜けてその代わりに牛蒡・豆腐・蒲鉾・竹輪(ちくわ)の適当なものが混ぜられる。奈良県吉野に通じる和歌山街道沿いの飯南郡飯高町は『飯高町郷土史』に大根・里芋・豆腐と紹介されている。一方、海に近い『明和村の民俗』に、すまし汁雑煮には菜葉の家庭も多いが牛蒡を入れることもあると紹介されているものもある。この一帯はとにかく具だくさんの雑煮地区が多いのである。 これらを考慮して南勢地域の雑煮の線引きをするなら、北限は、松阪市の南部から勢和村そして高見山地越えの東西を結ぶ線となる。南限は伊勢市の北から度会町そして熊野灘沿岸部を省いた北側、その延長は大台ケ原山を結ぶ線となる。
 『松阪市史』に「東久保町では家内の数だけ切り餅を神棚へ供えて、はがためといい、後雑煮にする」とある。この種のものは他地域にも点在し、調査資料にも見られる。例えば『鳥羽志摩の民俗』にも歯がため雑煮祝いとして「小さい丸餅を焼いて神仏に供え、その余りを普通2個当ての割りにして食し、1年の歯の健全を期す。その後に雑煮」と紹介されるそれである。正月に歯がためと言って餅(他県では餅とは限らない)を噛み、歯が丈夫になるとの習俗は全国的に見られる。歯固めの餅が後年に鏡餅に変わってこれを拝むようになり、一方ではそれが雑煮に吸収されたとは『米の文化史』で篠田統氏説である。一方、神棚へ餅を供えてからその供物を下げて雑煮とすることについては、元来、一年の始まりを迎えるため暮れに忌み籠もって神を祀って年を越すことで、その翌日の直会(なおらい)を意味しているとされている。これを正月雑煮の原型としたのは、『食物と心臓』の中で柳田国男氏が九州において使われる言葉から唱え始めたものである。
 多気郡や度会郡の山間地域に見られる具だくさんの雑煮は、餅と共に供えた幾種類かの野菜を、餅と一緒に煮て食べる直会(なおらい)と関連するものとの見方も出来る。雑煮の起源説はその他、『米の文化史』に篠田氏は「伊勢貞丈は、正月の雑煮は中世の烹雑(ほうぞう)が転化だが、本来の意味は餅や色々なものが入って五臓が温まるから保臓の義だという」考えを紹介している。この烹雑は、宮中式の正月元旦の献立に「二献・小さし(角)・烹雑・あさづけ・御箸台」(『日本の祀りと料理』参照)とあることも雑煮由来に関わっているようである。さて、この南勢地域の具だくさんの雑煮を「山間街道文化雑煮圏」と名付けることにする。


 

(4)伊勢市地域

 伊勢神宮の所在地は何かにつけて特殊な色彩を持っている。独特の幾分にも太い腰の無い麺を真っ黒い汁で食べる伊勢うどん、また、二軒茶屋餅や赤福餅あるいは返馬餅を食べて伊勢を感じたりするところがある。この場合の伊勢とは、神宮の聖地を意味する。雑煮を見れば、志摩半島を共通するものが多い、しかし、神宮の地ゆえ伊勢市は独立させて考えることとする。
 別表の伊勢市の資料に相反する調査結果を記載している。だがいずれの調査グループも信頼がおけることから、調査地区や家の違いと考えたい。但し、『伊勢市の民俗』には「味噌汁の方は無い」となっていることも記しておかなければならない。伊勢市の雑煮の具を同書に見ると、里芋・大根・八つ頭・葱となっている。伊勢市の隣の多気郡明和町のすまし汁雑煮は、菜葉を入れるところが多い。同町には味噌汁の事例も見られ、その具は大根・里芋・菜葉である。だが伊勢市地区の調理方法は、私の調査もまた次に紹介する村田家の例からも、そして周域の例をも併せて、ここではすまし汁と統一する。この地域がすまし汁であることについて、『伊勢市の民俗』では、「お正月そうそうミソをつけるといけないから味噌にはしない」との古老の談を紹介している。また具についての言い伝えも、「里芋は子供がたくさん出来るように、大根は家が代々続くように、八つ頭は人の頭になるように」との願いも記している。
 伊勢神宮における重要な祭に三節祭(さんせつさい)がある。神嘗祭(かんなめさい)と、6月・12月の月次祭であり新嘗祭(にいなめさい)で、稲(御稲:ごとう)を始めとする五穀豊穣を祝い、神々への感謝と天皇がその稲すなわち新米を食べ新しい生命を吹き込む儀式である。平成2年に大川学園で聞いた『食文化と三重県』の公開講座の「食文化の起源」で、当時神宮の禰宜である矢野憲一氏は「米には天照大神の魂が宿っていて、神宮田で実った米を天皇が食べることによって祖神と一体化(霊統継承)するのである」と紹介している。米は五穀を代表するもので、日本民族の起源と農耕文化の伝播を裏付ける信仰形態とも考えられる。そして、米には周知のように粳米(うるちまい)と糯米(もちまい)がある。米に限らず、日本人は粘り物系食品を好む民族でもある。この種の種族について、『モチの文化史』の中で坂本寧男氏は、タイ北部からアッサム以東の日本までの広い地域と設定し、それは中尾佐助氏が1967年に提唱した照葉樹林文化圏と合うとし、さらに「モチ稲栽培圏とモチ文化起源センターはほぼ一致する」と述べている。すなわち、粘り物系食品を好む日本人の文化伝播がここにあり、餅があるのである。同氏はその著書の中で、この文化圏の中でモチ米を蒸して搗く餅文化を発展させ、それを特別な時の儀式食としたとも述べている。このようなことを考え併せると、正月に鏡餅を供え神仏を拝み雑煮を食べる民衆の儀式に、実は三節祭の意味するものと同じ祖先の魂との一体化を感じないではいられない。
 伊勢市系の雑煮で特殊な存在は、平成3年発刊の『家庭画報』に紹介されて注目を集めた村田仙右衛門家の正月の雑煮である。村田家の雑煮は、丸餅ですまし汁、そこには「金銀餅」と呼ばれる普通の白餅と粟入りの餅の二色の丸餅が入る。具は菜葉のみである。この種の雑煮は志摩市越賀にも過去において見られたようで、『志摩の民俗』に岩田準一氏は畔蛸の事例として「昔は、この二つの餅は、一個は米の餅、他の一個は粟の餅であった。これを金銀の餅と称した。これは金銀の宝を集め込むという意であるとも、よい年にあう(粟)ようにという意であるともいう」と紹介している。後者では具についてなにも触れられていないが、「大きさは、普通の大人茶椀に入る程度のものである」と幾分小さい餅のことを記している。また、伊勢市の隣である度会郡度会町にも見られる。『度会町史』の元旦の項に、「家族の全員が揃ったら年男は、串柿と金と銀の餅を一人一人にくばる。その餅を入れて雑煮を作る」とある。粟は農耕では最初に収穫される穀物であり、古来より米と共に重要な位置にあり、この雑煮はかなり古い形態と伺い知る。しかも、伊勢神宮は出雲大社と共に、古代の生産活動や生活様式を今に受け継ぐ聖域である。この地域の呼称だが、事例は少ないものの特殊聖地から「伊勢神宮文化雑煮圏」と名付けることとする。



 

(5)志摩地域

 志摩地域も雑煮の特殊地帯である。歴史的に見ても、志摩は律令時代、御饌(みけ)の国とされている。すなわち、古来より魚介類を神宮や朝廷に御贄(みにえ)として献上していたところである。『三重県史』によれば、高橋氏が国司として着任した地域である。高橋氏は、元来、膳臣(かしわでおみ)で、皇室の食膳を司る統率者である。その一族が律令の時代に、今でいう知事としての国司に着任し、しかも他の国司と違って代々世襲となったのである。この特殊状況のほか、他地域から影響されにくち地理的な環境であったことなどから、伊雑宮(いぞうのみや)の御田植祭をはじめ浜島の弓引きと盤の魚・しろんご祭り等様々な継承文化を今に受け継いでいる。そこは国崎(くざき)・安乗(あのり)・相差(おうさつ)等と奈良時代に付けられた地名が今に残る地域でもある。雑煮だが、ここは志摩市だけでなく鳥羽市も志摩地域に含めて考える。
 志摩地方における雑煮は、丸餅ですまし汁そして具としては菜葉である。志摩町和具では、鍋の底に菜を敷いてそこに餅を縦に並べ煮立てる。即ち、水炊きの地区である。またこの地区は、正月7日の菜粥までは味噌汁を作らない習わしがある。その和具において、南勢地域の項で紹介した直会(なおらい)と雑煮原型説としての顕著な例が見られる。『郷土志摩』第19号に、西世古恒也氏が「村の有志や村役についている人たちは、夜神社に参って一同神主から大祓いをしてもらって、年明けを待つために宮ごもりをする。・・・中略・・・元旦になると身を清め神棚を拝み、日の出を拝む。神棚に供えてあった餅をさげて、若水でお雑煮を祝う」と紹介するそれである。
 志摩半島の雑煮とどうしても切り離せないのが度会郡南伊勢町であるが、熊野灘沿岸との地理的一面と、北牟婁郡沿岸部からの影響も受けているため、ここでは、志摩地域から切り離して考えることにする。
 志摩地域には、正月にぜんざい仕立ての小豆汁を食べ、すまし汁や味噌汁の雑煮を食べない地区が島々に点在する。ぜんざい仕立てで最も知られているのは神島である。ここでは「カンノモチ」との呼称が付けられている。『正月の行事』に「古老に聞くと以前のカンノモチは、今のぜんざいのように甘いものではなく、砂糖はあずき汁の中へあとから一つまみ入れただけであった。どちらかというと、砂糖味より塩味の勝った味であったとのこと」と報告されている。また、『三重県の伝統料理』で徳井賢氏は「カンノモチは本来塩で味付けしたようです。塩のアズキ(小豆)汁とも呼ばれ、現在のぜんざいとは言いにくい」と言っている。また同書に徳井氏は、「稲作と無縁の神島では塩のアズキ汁が最も古い形なのではないでしょうか」としている。
 答志島や坂手島も正月は小豆汁であるが、こちらは「善哉」と呼んでいる。三重大『第37回卒論』で小畠大枝史は石鏡島の「あずきもち」との呼称の同種のものを紹介し、さらに先の地区も正月三が日の食習慣を紹介している。さて、先のカンノモチについて、『正月の行事』には「カンノモチは寒の餅と解している人もあるが、カンは羹と漢字で書くカンで、いわゆるあつもののことをさすといっている人もある」と紹介している。羹(あつもの)とは、熱い食べ物であり、汁の多い料理のことで、小豆汁はその流れというのである。このように、正月にすまし汁や味噌汁調理方法の雑煮を食べず、小豆汁を食べる地区が志摩地域にはある。
 小豆汁と同系のものは、志摩半島内陸の阿児町鵜方地区に、「アンピン」と呼ばれるいものがある。これは『三重県の伝統料理』に増木幹夫氏が「湯で煮て柔らかくした餅の上に小豆餡を乗せて、餅ではさむようにして食べる」と紹介しているものである。餅は小型の一口丸餅で、熱湯を沸かしてその中に入れ、浮いてきた餅を椀に取りそれに小豆餡を乗せて丸めて食べるのである。
 西日本における小豆汁の分布は、出雲以東がよく知られている。詳しくは、『米の文化史』に正月の小豆汁食の地域及び地区が紹介されているので抜粋すると、出雲地方の他、因幡(いなば)、但馬の海辺、能登の外浦や越後そして信濃川沿いといった地域である。岡山県邑久(おく)郡や和気郡、兵庫県赤穂郡や揖保郡そして飾磨(しかま)郡もある。和歌山県及び三重県では紀伊の南北牟婁郡そして志摩市、愛知県に入って海部郡と知多郡となる。実に広い範囲である。この小豆汁は、今日の雑煮以前の習慣で、1年の邪気祓いと精気付けそして新年の祝いに関わる分布の姿なのであろう。
 『三重の食事』に志摩市越賀の正月の項を見ると、雑煮を食べ、中には「ぜんざい」を食べる家もあり、さらに「ぜんざいを食べて甘いものに堪能すると、茶碗に焼いた餅を塩を入れ、番茶をかけてたべる」と、三様の餅の食べ方を紹介している。一方、『鳥羽志摩の民俗』に、志摩市の畔蛸地区の元旦の習俗として、「若水を神棚に供え、粟と米の餅を切って、白餅の上に粟餅を載せ、これを紙に包んで諸社に参拝する」との事例を掲載している。これは伊勢地域で紹介した金銀餅雑煮の名残を連想する。この種の雑煮が明治期あるいはその前に存在していたことを暗示する事例とも考えられるのである。
 丸餅ですまし汁の雑煮、小豆汁、金銀雑煮餅、そして今も熨斗鮑を調整して神宮に奉納する律令以前からの伝統を継承する志摩である。また、古い時代の形態の田植えを伝承する伊雑宮等々と考えると、当地域は「律令文化雑煮圏」と名付ける。そしてその西の境は、伊勢市二見町から度会郡南伊勢町を結ぶ線と考えられる。


 

(6)伊賀地域

 伊賀地域については、南北に分けて考える必要がある。全域的に雑煮用の餅は丸型である。雑煮に使う餅は、搗いたもちを丸めたときに板の上に載せて掌で幾分強く押してひしゃげて薄くした押し餅系のものである。このようにして作ったまだ柔らかい餅を蓙(ござ)の上に並べておいたり、或いは、丸めた餅を蓙の上に置いて手の甲で強く押して中央部を窪ませた形にする。当然のことだが共に餅にはっきりと蓙目が付く。この幾分薄い丸餅を「はなびら」とか「花びら餅」と呼んでいるのは、中央部が窪み、さらに蓙目の付いた餅の姿形が花ビラに似ていることによる。
 伊賀地域としての雑煮圏の東側の線引きは、県境にある那須ケ原山から加太峠を通り、南に下って伊賀街道上の長野峠を経て布引山地、さらに白山町から美杉村を南に降りて高見山地へと結ぶことが出来る。

① 北部伊賀地域

 伊賀地域の中でも丸い花びら餅を使い、すまし汁の雑煮を作る地域の南限の線は、伊賀市を除くため、本来は幾分曲線を描くことになるが、先の長野峠と島ヶ原村を結ぶ、即ち旧阿山郡全域ということができる。この地域の雑煮の具は、伊賀市柘植町倉部地区で代表される里芋・大根・豆腐が基本でこれに家によっては葱が加わるのである。この場合、里芋は丸のまま、大根は輪切りとする、『民俗採訪61』には島ヶ原の例で、先の具の他に、トロ芋・人参を加える報告がある。雑煮には具からの由来による烹雑(ほうぞう)との関わりで、幾種類かの具を入れる関西系と、具の少ない関東系との分類もある。次に、当地域は餅の扱い方に特色が見られる。三重県の大部分の地域は餅を湯炊きする、そして志摩地域の一部が水炊きとなっているが、当地域は餅を両面焼きしてから椀に入れるのである。
 雑煮用の餅ではないが、伊賀市柘植倉部の正月の飾り餅を調べると、鏡餅とは別に「十二月つぁん」とか「ジュウニシ(十二支)さん」あるいは「ジュウニシンショウ」と呼ばれる供え餅をする。それは12個(閏年は13個)の丸い小餅と、「ミカヅキ」とか「ネズミ」とか「しょうがっつぁん(正月さん)」と呼ばれる幾分も変形させて作った大きい餅をタジ(長方形の木製箱)のような盆や丸盆に並べ、床の間の前や仏壇の前あたりに、重ね餅と共に飾る。これは正に京都の正月の古い習俗である。その京都は、柘植を起点とし加太越えの最も古い時代の東海道から別れ、草津市を通りと、そう遠くないところに位置している。表現を変えれば、現在のJR関西本線とJR草津線の分岐点が柘植なのである。日本の文化をリードしてきた京都の影響の下の伊賀市柘植の餅文化が伺い知れる。
 京都市内や山城地域の場合の雑煮は、『京都の食事』に紹介されるように、丸餅を焼いて入れ、仕立ては白味噌である。具はかしら芋と呼ばれる親芋に大根の輪切りが入る。伊賀北部の雑煮は京都の影響にしては幾分にも違うように見えるものの、味噌を溜まり醤油に替えれば、似通った雑煮となる。この変化は中南部伊賀の中で説明することとし、北伊賀地域を「京都文化雑煮圏」と名付けることにする。


②中南部伊賀地域

 伊賀市から名張市の一帯は北伊賀地域と同様に花びらと呼ばれる丸餅である。正月の雑煮用の餅にこの「花びら」の呼称を使う地域は伊賀全域のみならず、その西もかなり広い範囲のもののようである。『食事と生活』で江馬務氏は、「吉野蔵王堂では昔から権現(ごんげん)に正月に供えた餅を煮て、花びらとし、これを諸人に施した」と紹介している。権現は修験道士の信仰の対象である。美杉町から奈良県宇陀郡への道筋はその昔は修験道の盛んな一帯である。名張市からは名張川の支流である青蓮寺川沿いに宇陀郡御杖村へ合流する道、しかもこの道は宇陀から吉野さらには修験道の本山大峯山群に続くことから、花びら餅は西から伊賀に入ったものなのだろうかとの思いが出てくる。但し、宇陀郡大宇陀町では、この餅のことを『奈良県史』に見ると、「押し餅」と呼んでいる。
 中南部伊賀地域の雑煮の調理方法は、赤味噌の雑煮である。具は、大根と里芋の取り合わせが主流である。そのほか、大根・里芋・豆腐、あるいは大根だけの地区もある。同じ赤味噌による味噌汁系でも、伊勢平野の角餅と一線を引いた姿が布引山地を境として地図に表れる中南部伊賀地域である。
 伊賀一国と言う。藩政時代には、中勢地域に位置する津藩が藤堂家本家で、上野市の城や名張市の城は分家が担当している。外様大名とは言え、家康以来将軍家にことのほか信任を得ていた藤堂家は、伊賀を西諸国の大名からの守りの砦としたことは歴史に知るところである。雑煮を見ると、ここにも藩政時代の名残の中勢地域と同じ味噌汁と具扱いの同一性があると解することもできる。一方では、両藩の性格の違いを餅の形状で分類し、伊賀は関西からの守りも含めて、ことに西を意識させて丸餅と見ることも出来る。
 伊賀地方全域の像に分布図を見ていて思うことは、丸餅・すまし汁の北伊賀圏からの道は京都に通じている。一方、伊賀市及び名張市を始めとする丸餅・味噌汁の雑煮の中南部伊賀圏からの道は、奈良盆地を経て難波(なにわ)に全ての道が通じているのである。ここで注目すべきことは、関西の白味噌では無く、赤味噌を使うことによって伊賀藤堂家支配を強調する独自性を民衆の生活にも出していることである。関西系雑煮であるのに赤味噌を使うことに幾分かの疑問が残らないこともない。このことについて、先の著書で篠田氏は「西国系のうち白味噌、赤味噌、醤油と調味料のかわっていくのは、結局は経済的問題ではないだろうか」としている。今日、この篠田説は定説化しているようである。さて大阪雑煮だが、『大阪の食事』にも紹介されるように、丸餅で白味噌、餅は湯炊き、具としては小芋・大根・人参・焼き豆腐、食べる時にかつお節を削ってかける。但し、これは元旦と3日目の雑煮で2日目のものはすまし汁に具として水菜、そしてそこに焼いた餅を入れる雑煮となる。奈良県宇陀郡の雑煮も、里芋・大根・人参・焼き豆腐と全く大阪と同じである。このように見ると、やはり大阪の三ケ日の雑煮の影響を受けつつも、個性溢れる藤堂家伊賀流となっていると考える中南部伊賀地域の雑煮である。個性的ではあるが、常に関西を意識しているゆえにこの地域のものを、「難波文化雑煮圏」と名付けることにする。



 

(7)南島紀北地域

 雑煮の分布図で、多くの要素が入り組んでいるのは、熊野灘沿岸部の南伊勢町地域である。海の民は海流に乗っての文化交流がある。調査結果において例外的なものを除けば、律令時代にこの地域は志摩の国であったから、志摩半島の影響を強く受けているわけである。が、その後の歴史の流れから、一方では紀州の影響をも受けている。灘の黒潮の文化から見れば、紀北町も尾鷲市も元来この地域に含まなければならないが、ここは熊野地域に準ずるものとする。さて南島地域の雑煮は、丸餅にすまし汁、具は菜葉のほか大根・人参との地区が多い。
 『南島町史』に、「当地区では、元旦から小豆を入れてぜんざいにして食べる家がおおい」と紹介するのは志摩の文化影響の名残りと考えられる。だが、一方では、北勢地域の鈴鹿市においても『三重の食事』に、元旦ではないものの「2日には、包みもちで必ずぜんざいをつくって食べる」との事例がだされている。志摩地域の離島や点在する事例を考え併せると、正月の小豆汁食は、いつの時代か定かでないが、どんどん遡れば三重県において広い地域で見られたのかも知れないと考えるのは行き過ぎであろうか。さて、この地域については、「灘黒潮文化雑煮圏」と名付けることにする。


 

(8)熊野(紀南)地域

 熊野地域の雑煮には、熊野市の北部地区に「えくぼ餅」とか「押し餅」と呼ばれる丸餅が見られるものの、全域的に見れば角餅のすまし汁が主流である。具は大根や人参であったり、豆腐に菜葉であったり、里芋と豆腐であったり、葱や豆腐の他に蒟蒻を入れている地区もある。一方では里芋と菜葉の組み合わせの地区もある。どうも豆腐と野菜(この場合は大根・人参・里芋・葱)、あるいは里芋と菜葉といった組み合わせから、里芋と豆腐が基本形のようである。
 『三重の食事』に、山間の熊野市紀和町の報告がある。この場合は幾分違って、「ねこ」と呼ばれる大型の蒲鉾型に整えた餅を切って雑煮に使い、具は真菜と呼ばれる青菜である。これは交通不便な時代のさらに山間部の雑煮として団子餅系に由来する事例である。
 紀州地域の雑煮分布は別表のようになる。この地域は藩政時代は紀州藩領で、言わずと知れた御三家の1つの特殊権力下である。だが一方では、熊野信仰の長い歴史と、記紀における天津神(あまつかみ)一軍の上陸の神話伝承と神事、また不老不死を願う道教との関わりによる蓬莱(ほうらい)信仰、神道にも仏教にも通じる黄泉(よみ)の国或いは補陀落渡海(ふだらくとかい)に最も近い地として、日本人の精神生活に深く関わってきたのが熊野である。そこには三重県南部・奈良県南部・和歌山県西南部そして熊野権現と併せて上記のような様々な姿が伺え、特殊は熊野文化圏を形勢している。これゆえ、紀州藩領であっても、『和歌山の食事』にも記されるように和歌山市内における丸餅の味噌汁仕立ての雑煮は見られず、那智勝浦と同様の角餅や『北山村の民俗』の東牟婁郡北山村に記される角餅に具は里芋・大根・菜葉のすまし汁と同系列のものである。
 紀州半島南端の熊野文化地域への道は、難波からの西の道、伊勢からの東の道、吉野からの中央縦断の道、そしてもう1つ、黒潮の流れによる海の道がある。第四の海の道は関西と関東を直結する道であり、古くは西の文化が東に伝播する極めて重要なルートなのである。そしてこの地域こそ文化伝播の仲介ポイントと位置づけることが出来る。藩政時代になると、東の文化が西に流れる時にここで立ち寄り、従来からの文化と混交した姿がこの地域の雑煮と考える。
 熊野の文化圏は、三重県でいえば尾鷲市と熊野市の中間に聳える矢の子峠までが直接影響を受ける北の境となる。しかし雑煮の姿から考えると、海の民の海上交流も相まってここでは北牟婁郡紀北町紀伊長島区と対岸の錦を含みその北限は荷阪峠と錦峠を結ぶ線と定める方が適するように思う。そしてこの広い地域を「紀州熊野文化雑煮圏」と名付けることにする。

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三重雑煮考─郷土の民衆文化を雑煮から見る─【4】

【4】雑煮の出汁

 伊勢平野及び熊野街道沿いの山間部そして伊賀盆地でもまた灘の熊野路も、雑煮の出汁取りは、煮干(地区によってはジャコと表現する)または鰹節を使う。ことに伊勢湾も中央部の白塚の浜(津市)は真鰯や片口鰯そしてひしこ鰯の漁が盛んで、「漁師は、ゼリがえらいと船を出し、真っ黒になって磯に打ち上がるひしこの眼が光るのを見て網をひき、鰯を捕った」と古老が語る地である。それを丸のまま薄塩で3時間程漬け、これを笊に上げ、水を切ってから太陽の当たる浜で干して素干しを作る。一方ひしこ鰯を煮湯に通して同様に浜で干す煮干し、共に特産品としてつい最近まで全国に知られていた地である。古くから伊勢・伊賀全域にこの白塚の素干しや煮干しが出回って、正月のタツクリや雑煮の出汁取りに使われていたのである。雑煮に使うその分量は、手で一掴みまたは二掴み程度と古老は語る。伊勢平野や伊賀盆地では、それをサラシ木綿で作った袋に入れて使う場合も家によってはある。調理方法としては、煮干しで出汁を取ったのちに具を入れるのが大半であるが、煮干しを具と共に煮ることもある。これは、地域の違いというよりも家による違いによるところが大きいようである。
 志摩地域の沿岸部になると鰹節か削り節を使う家が多くなる。鰹節といっても、鰹を二つ割りにして炊いたのちに骨を抜いて火入れしたり寝かせたりを繰り返して自家で作った「かめぐし(亀節)」である。同地の漁師の家では丸干しにした鯵やメッコウと呼ばれる魚を使う場合もある。この干し魚を使用する場合は、石臼で挽いて粉にしてからとする。尾鷲地域ではコガツオ或いはネジカと呼ばれる魚を使った節で出汁取りをする。灘沿岸の漁師町では、このほか小魚を焼いて身をはずし、それで出汁取りする場合もある。多気郡の櫛田川沿いや、紀州の熊野川沿岸部とその周域の山間村では、豊かな鮎の恵みから、これを焼いたのちに干したものを出汁取りに使う家が多い。
 雑煮は、先ず神棚や仏壇そして恵比寿(エベッさん=フクトクジンさん)ときには荒神さん(おくどさん)にも供え、その後に家族が揃って食べる。それ故、神仏に供えるものには出汁を入れずに作り、家族が祝う方はのち出汁を入れて作るという地区や家もある。また県下全域でしばしば見られる例は、津市安濃町の古老が語る「お正月の雑煮は仏さんにあげるんで、煮干し入れんと揚げ(油揚げ)入れてだいこ(大根)の輪切りと里芋を味噌でたきますや」の、具として油揚げを入れての出汁取りである。同様の精進雑煮には、熊野市における昆布によるものもある。

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三重雑煮考─郷土の民衆文化を雑煮から見る─【5】

【5】人育てに大事な郷土学

 三重県下における雑煮の民俗調査事例による分布図は、基礎資料の少なさと調査項目が一定していないため、幾分消化不良気味である。未調査地点を調べたり、従来の先学が行った調査地点をさらに項目を増やして再調査する必要がある。しかし、それは人海戦術で行うか、幾人かで長期的に取り組まなければならないから難しい。さらには、先にも記したが、日数をかければ別だか適する話者を求められるか否かも今となっては難しい。そこで、先学の貴重な民俗資料と私の調べたものを地図に書き込んだわけである。すると地域毎の分布が現れ、これを郷土史や地理も考慮して考察した結果、予想していたより明確な形で日本の雑煮文化の分水嶺がその中に走っていることに改めて気付くこととなる。
 三重県は東西文化の分水嶺であり、雑煮の宝庫となっている。それは二つの特色ゆえと考える。一つは律令の昔からの人々継承を感ずる雑煮と、近代交通機関と三大河川架橋による流入の雑煮に代表されるように、予想される時代格差による点である。二つには、農耕土俗文化といった風土と民衆生活に関わる雑煮や、藩政といった時の政権が民衆に関わる雑煮、あるいは黒潮の海の道のように文化伝播途中によると考えることの出来る雑煮等で代表されるように、多様性による点である。
 「郷土愛意識の弱い三重県人」との言葉をよく耳にするものの、それは幼い頃から、大人が何もない三重県と幾度も言い聞かせてきた結果ではないかと考えてしまう。ことに最近は違ってきたが、戦後以降の義務教育機関の責任は大きい。三重県という郷土は、興味を抱いて見れば、色々と個性的特色があって面白い。民俗学・宗教学・歴史学・地理学・考古学・生物学その他様々な分野の基礎資料をもっともっと掘り起こせば、驚くほど面白く楽しいものだろうと思われてならない。全ての学問分野から綿密に掘り起こされた資料を統括する「郷土学」或いは「三重学」ともいえる総合的視点があれば、自然に郷土愛を生み出せる三重県である。文献史学と考古学を優先させるきらいが今日までの三重県にはある。雑煮を追いかけて感じたことであるが、全ての学問分野が同じ土俵の上に乗ることこそが必要であり、そうなれば、幾多の面白い姿の三重県がさらに見えてくるのではないだろうか。
 過去における民衆生活の姿が見えたということは、今にどう伝わり、どう変わってきたかということが判ることである。それぞれの地域の歴史と風土に密着した生活文化がそこに浮かび上がって来る。自然や神仏との共生の姿も、他地域とのかかわりの姿や、その地域だけの独自性も明確になる。そして先人の何を郷土性として後世に伝えるかもである。子どもたちが育つに必要な文化背景がそこにあるように思う。三重県下の昭和10年頃の雑煮を追いかけていて気付いたことは、三重県のそうした民衆の誇れる文化の掘り起こしが遅れているため、子どもたちに伝えられていないということである。

【初稿『三重民俗研究会会報№12号』 平成4年】
『三重県の食生活と食文化』73頁より

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