私は、津南ロータリークラブ会長職を、平成22年6月末日をもって終える。在任中、5分程度だが、「三重県の教育・宗教、そして郷土誌」について33回話をした。以下は、教育と宗教倫理に関する3話である。
(平成22年6月22日)「十戒」はモーゼだけでなく、仏教界にもある。正式には「十善戒」と言う。「我らの身体と言葉と心の三業(さんごう)を、清らかならしめんがため、十善を守りたてまつる」と、十の倫理を僧侶にも在家人にも日々の読経で唱えさせる。「不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄(もう)語、不綺(き)語、不悪口、不両舌、不慳貧(けんどん)、不瞋恚(しんに)、不邪見」である。私なんぞは、どれ一つとして守れないが、犯す都度、「申し訳ありません、御免なさい」と心を痛める。それが凡人の歩む人生であり、宗教倫理がその民族の文化として反映するゆえんである。
しかし、宗教倫理を否定する戦後の日本の風潮がある。大乗仏教下の日本では、四足の動物の血を問題にした「不殺生」の戒律を重んじた。そこに人を殺す大罪、親や子が殺しあう想定は無かった。 新渡戸稲造は、宗教倫理が薄れていた明治維新、社会の底流にある武士道で日本の子どもたちは育ったと言った。
では、武士道も宗教倫理も否定する今の日本の学校教育のどこで子どもたちの倫理観は育つのか。学校での道徳教育は、魂(こころ)が無いゆえ、唱え文句となる。
家庭に、人間教育の根幹の総てを任せる学校教育で果たして良いのだろうか。
(平成22年3月16日)欧米の一神教はキリスト絶対主義思想であり、日本の多神教思想は総ての存在を認め、共生と循環の思想がある。
思考と行動と信仰のあり方は、欧米と日本では大きく違う。例えば「愛」は、キリスト教では「ラブ」だと思うが、仏教では時には「愛欲で煩悩」の世界であり、時には「慈愛」の世界となる。信仰の自由も、キリスト教では聖書に尽きるが、例えば江戸時代の宗門人別帳のように縛られているようでも、実はその時々に応じて神仏を個々人がその都度選択して精神生活を乗り切る生き方がある。
宗教はそれぞれの民族の文化であり、日本には長い歴史の集積によるアイデンティティー形成上のベースがそこにあるはずである。
人間力や倫理観を育てる教育環境は、その風土と歩んだ歴史の中にあり、これを無視する日本の戦後のあり方はどうなのだろう。
(平成21年11月17日)教育基本法には、政治と宗教に関しては、文言として同じように記されている。昭和22年制定のものも、平成18年の大改正後も同じである。今回微妙に文言が変わったが、それでも、
第14条(政治教育)「1.良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。2.法律に定める学校は、特定の政党を支持し、またはこれに反対するための政治教育その他政治活動をしてはならない」。
そして、
第15条(宗教教育)「1.宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。2.国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教活動をしてはならない」である。
戦後の教育で、政治教育は行うが、宗教教育は排除した。倫理、道徳、修身、祖先崇拝も含め、本来の心のありようから排除した日本の今がある。
三重県は熊野古道からも知れるが、これをことに徹底排除した環境下にある。自分は祖先の誰一人欠けても存在しなかった貴重な存在とか、祖先崇拝も、また、宗教倫理も、家が責任をもたなくてはならないとの認識がいる。
教育委員会の考え方なのだろうか、伊勢神宮や氏神での祀りや祭りを、文化としてとらえられない面では他県と随分距離感があるように思うのは私だけだろうか。