学校法人 大川学園
学校法人 大川学園
各校の詳細はこちら


津南ロータリークラブ

社団法人 三重県私立幼稚園協会

社団法人 三重県レクリエーション協会

斎宮歴史博物館

三重ふるさと新聞

やまもとようこのマクロビーノライフ

三重ブランド

園コミュGift*momo

開園以来続く幼稚園のおもちつき

 令和5年12月1日、大川幼稚園で50年以上続く恒例のお餅つきが行われた。園長先生は稲束を手に「この“いねのほ”しってるかな?。おこめのみ…これをおゆでむして、この“ウス”にいれて、このおもたい“キネ”で、ペッたんぺったんことつくと おもちになります。きょうは、ねんちょうさんに ついてもらいます」との話…すると皆から大々拍手。最初は、里山をいつも整備している長谷川さんが練りこみから始め、ぺったん、ぺったんと音を立てて柔らかな状態まで。その後、年長さんが4人ずつ出て子供用杵で、最後に再び長谷川さんが仕上げると大喝采。出来たてのお餅のやわらかな状態と匂いを子どもたちは順に嗅ぎ…その後、保育室で皿に盛られたお餅を味わった。

 初期から30年間ほどは調理師科学生が園児たちと一緒になって搗いていたが、やがてPTAの方に替わり、コロナで今の方法…体験はするが全員の試食は給食室で別仕立てである。それでも、皆での餅つき体験は笑顔が素晴らしい。

20231201_112143

|

プレゼンテーションの出来る調理師・製菓衛生師を目指して

 令和5年11月30日、調理経営学科2年生が、“九鬼産業㍿”の胡麻製品を使った試作品を発表した(三重県雇用経済部による産学連携事業)。企業側から開発部長、管理栄養士他の3名が来校され、試作品考案の6グループごとに試食をしていただきながらのプレゼンテーションである。昨年度の特別授業で胡麻についての知識と郷土の九鬼産業製品を教えていただき、その後の授業でレシピ開発に取り組み、今回の発表である。

 目的を岩本副校長に聞くと、“プレゼンテーションの出来る調理師・製菓衛生師になってもらうため”とのこと。各班の何れの料理・お菓子も、幾種類もの胡麻製品でさまざまな具材を生かしながら興味溢れる料理・菓子に…失敗を繰り返しながら個性的に、より生きたものとして学生なりに仕上げている。企業側から褒めていただいたり、更なる工夫への使い方のアドバイスが出、学生にとって益々の意欲に結びついたようだ。

 本日の試作品は、①セサミフィッシュバーガー、②フォンダンセサミショコラ、③胡麻フィナンシェ、④ごまグラタン、⑤ごまクリームコロッケ、➅ゴマのエクレアシュー、⑦黒胡麻マリトッツォだった。津駅西口前の学園1階にある実習店舗“ピッコロ”で、12月20日(水)にこの内の何種類かを販売するとのこと。今回、邪魔にならないように見ていただけの私としては、今日のコメント等から興味が倍増し、ピッコロ開店日に弁当と共に購入するのが待ち遠しい。

20231130_111525 20231130_115040 20231130_115055

|

妻への見舞いの人々

 11月12日のお昼に、津ドレメ(津ドレスメーカー女学院)時代の3人の先生たちが、妻の見舞いも兼ねて昼食持参で訪問してくださった。本当はあと3人ほど声掛けしないといけないが、まずはこれだけで、と言われる。確かに、ドレメの先生たちは今もずっと行き来をされている。

 体調を崩された仲間の先生に、毎月絵手紙を出しているのは今日の声掛けの92歳の先生である。この先生は、編み物が専門だが、手先の器用さと美術感覚の良さから、1㍍ほどの大型羽子板を顔も手描きで完成させる技術を、御高齢の講師から受け継いだ方だ。今般はそこに、洋裁が本来の専門だが二度目の勤務から着付けで活躍された93歳の先生、そして、ぐんと離れて76歳の先生の訪問ゆえ、妻と私も合わせれば平均年齢84.6 歳だが、話していると幼馴染感覚になる懐かしく不思議な雰囲気を感じた。

 食事が終ってからも話は続き、誰々先生は手芸の関係で今も毎月遠くからみえるの、とか、誰々先生と誰々先生と3人でご飯を食べに行ったとか、誰々先生は元気にリハビリに行ってみえるとか話は尽きない。

 時代がそうさせたのだろう、私が中学生の頃のドレメの先生たちは、全員がひょっとして姉妹ではないかと感じたことを思い出す。一方で今日の90代の方たちは戦争体験者で、戦後の何もなくなった時代を懸命に共に生きてきたからだろうか、10年後の私たち世代と雰囲気づくりや気遣いの違いを感じた。

20231112_125809

|

高野山真言宗三重支部の催し

 令和5年11月11日アスト津のホールで、“特別伝道 枢儀、参与檀信徒研修会”が開かれた。これは高野山真言宗の三重宗務支所主催の「弘法大師御誕生千二百五十年記念」の一環での催しである。タイトルには「いのち輝け 大師のみこころ」とあった。高野山からは宗団教学部長の桐生俊雅僧正を迎え、法会の後、桐生僧正のもと“授戒”が行なわれ、参加者約250人に仏界とのご縁の証明書に値するものが授けられた。

 私は枢議としてご高齢の小林様と2人で最前列に座らせていただいた。法会も式典も厳粛なもので、続いて二十五弦の筝曲演奏が行われた。演奏者の中井智弥氏は、津市出身で東京芸術大学を卒業された方とのことで、楽曲の幅を持たせるために作られたと説明を受けた二十五弦の琴の演奏は、ジャズ曲に続き桐生氏作曲という「花のように」という曲も素晴らしく、心を打たれた。

 昨夜幾分熱があったのが、この夜はぐっすり寝ることが出来、その翌朝は体調が戻っていた。心豊かな御詠歌や読経の仏心、そして壮大な筝曲の演奏のお陰なのだろうと感謝した。

20231111_131408

|

八ヶ岳の紅葉満喫

 10月14~15日、鈴鹿山岳会が6年ぶりに貸切バスで北八ヶ岳に出かけるのでとお誘いを受けた。大川学園に籍を置いて以来、10月は行事が多いため信州の山に入れなかったこともあり、学園行事と私の身体的問題から一瞬迷ったが、これが最後になるかもしれないと参加させてもらった。

 初日は北八ヶ岳ロープウエーでまずは標高2240㍍地点へ。皆さんは坪庭を経由して北横岳散策だが、私たち5班は縞枯山荘までとした。

 私のいる5班は50代1人を含んでいるのだが平均年齢は80.3歳で、足に故障のある者ばかり。だが、雄大な景観の中で高山特有の爽やかな気流の中に身を浸したい者ばかりである。そして秋晴れの中、あまり高低差の無い縞枯(しまがれ)山荘までを散策。山小屋のベランダで昼食を取り、コーヒーを飲んで雑談…縞枯れの山が緑に変わったとか、その昔2月にスノーシューで北横岳からこの小屋を経由して茶臼山、そして麦草ヒュッテに歩いた思い出話となる。

 夜は昭和59年に初めて訪れて以来、北八ヶ岳に来ると常連宿となった三井の森の更に山深い地にある、炭酸泉の名湯“唐沢鉱泉”でお世話になった。48人の気心知れた山仲間との食事会は実に久しぶりで楽しい。何時ものことだが、副菜の種類の多さ、名物のキノコ汁は実に期待を裏切らない…。

 食事後、リーダーから初めての登山参加者もみえるがと前置きし、「天気図に現れた三つの低気圧が明日どう動くかだが、天狗岳登山は中止させていただきます」と発表があり、お陰で19時30分頃にJR鈴鹿駅着予定が実に早く帰れた。

20231014_131849 20231014_163041

|

イワシの日の三重県の祭りずし「いわし寿司」

 10月4日は「104で鰯の日」である。伊勢湾には西側から幾本もの川が流れ込み、伊勢湾の愛知側から三重側に流れる海水に栄養豊かな真水が混ざってイワシの好物のプランクトンが育ち、これを追って津市の近海で鰯は大量に捕獲されてきた。1年を通して、マイワシ、カタクチイワシそしてウルメイワシと、温暖化で変化するがその量は時代が遡ればのぼるほど想像を絶するほど上質で豊漁であった。

 室町時代の作といわれる“猿源氏草紙”が『御伽草子』の1編に含まれている。安濃津(物語では「阿漕浦」)で捕れた新鮮な鰯を都で売って豊貴になり、二代目猿源氏に継がせてからの恋物語が面白可笑しく描かれている。この物語を三島由紀夫が江戸元禄時代に置き換え更に興味をつけて戯曲に書き換え、歌舞伎公演で多くの人に知られている話となった。

 この一連の話を“みえ食文化研究会”で20年間続いた最終記念公開講演で話したとき、今日の調理師科講師の大寿司ご主人松田春喜先生が聞いて下さった。国文学者や歌舞伎支援者に知られる御伽草子であり、私も2000年に初めて発表以降、津エアポートラインの雑誌や中部料理学校協会誌や全国調理師養成施設協会誌、2008年調理栄養教育公社から出版の『三重県の食生活と食文化』にも掲載した。この間講演も続け、これが最後と思ったときに松田先生の協力を得、「鰯街道プロジェクト」を三重調理専門学校と伊勢調理師専門学校と相可高校調理師科で始動し、その後毎年この日に調理生には特別実習を担当していただいている。

20231004_094204

|

Eテレの10月9日(月)22時からに顔出し収録

 “グレーテルのかまど”という番組の制作クルーの収録取材を受けた。今回は「吉田沙保里のなが餅」ということで、私の出番は「三重県の餅文化“餅街道”」について知りたいとのことであった。昭和61年に出版した『食べもの三国誌 伊勢・志摩・伊賀と熊野の民俗散歩』(新人物往来社)以来、図書の出版ごとに取り上げてきた三重県の特色としての多種多様な街道餅である。東海道と伊勢街道は、水利豊かな瑞穂の伊勢平野で、街々の出入り口の茶屋で腹持ちの良い餅(団子餅含む)が出された。江戸時代には一生に一度は伊勢にと、7度のおかげ参りブームがあり、中には6か月の間に300万人と、6人に1人が参拝した記録もある。

 三重県の餅は、桑名・四日市・鈴鹿では細長くて平たい、餡入り両面焼きの吉田さんが好きな「ながもち」が見られる。津・松阪には餡子を米粉で包み、その上に津の場合は色の付けられたもち米を乗せてふかした「けいらん」、松阪は色を付けないもち米を乗せた「まつかさ餅」と呼ばれる餅。伊勢市に入ると参宮(参拝)者の多さから、互いに競った伊勢を感じさせる多種多様な餡子餅や包み餅となる。そしてもう一グループは東海道の難所の鈴鹿峠を越える直前の、亀山に見られる小ぶり類の餅や団子餅グループである。このように実に豊かな餅文化なのである。

 2時間ほどの取材だったが、吉田さんの好きななが餅を、ヘンゼル役の瀬戸康史さんが再現され、吉田さんのご母堂様や県総合博物館も取材故、私はたぶん1~2分の出演になるのだろう。しかし、教育テレビで三重県の餅文化が取り上げられることは嬉しい。放送は10月9日(月曜日)22時からEテレで、再放送は13日(金曜日)13時05分から(Eテレ)、総合テレビ18日(水曜日)11時05分からとのこと。

20230805_151242 20230805_150816

|

秋風の中で大盛り上がりの運動会

 9月23日(土曜日)、気温も一気に下がり天候にも恵まれ、津西幼稚園の運動会が開かれた。2歳児幼児舎と3歳児年少クラスは8時30分から、年中児組と年長児組は12時30分からと2部制である。

 午後の部のオープニングは鼓笛隊演奏から、年長児はこの他“津西ゲンキKIDS  Mujaki”のよさこいも披露。あとの各競技は走って踊って…修了児参加の借り物競争は観客の保護者も巻き込み、…年長児のクラス対抗リレーは保護者も先生方もその応援の凄さ…、それより盛り上がりは最終の親子ダンス…高揚の頂点のままの閉会式…おじいちゃんもおばあちゃんも皆はちきれる笑顔は最高だった。そういえば13時20分ごろ、鈴鹿FI日本グランプリのお陰で、アクロバット機飛行チームのブルーインパルス5機が2度3度と編成を組んで運動場上空を飛んでくれて、これも気分をグンと盛り上げてくれた。

20230924_101509 20230923_132251 20230923_151632

|

不思議を感じる人との出会い

 9月8日記 50数年通ってきた理髪店が閉鎖…ここ3回ほど同級生が経営する別の店に行き始めた。先般、そこで順番を待ちながらパソコンに夢中の若い客に興味を抱き、私が終わったあと店主を交え3人で10分程だったと思うが話しをした。

 幕政時代は城郭が災害で崩れた時も修繕には幕府の許可を必要としたことから、現在も資料が残っているとのこと…これを資料に論文を書いてみえることが分かった。今は違うが、県の仕事を一時期手伝っていたことからこの理髪店に通われているということも判った。同級生の店主の言動から信用のおける若者と感じた。そこで、“つの本”で出版した明応7年の大地震と津波で消えた姿探しの『安濃津物語』、歴史街道で出した資料の一部、そして明応の大地震との関連で“御伽草子”を紐解いた「鰯街道」の論文、その他一連の経過録をこの若者の参考になるかもしれないと送った。その縁で、彼から彼の論文が送られてきた。

 平成28年発刊の『歴史地震 第31号』はじめ5本の同学会誌掲載論文で、鳥羽城や伊賀上野城そして津城のものであった。縁とは不思議な出会いをさせてくれるものである。生きているということは…全くの偶然の積み重ねでちょっとからの連続性で…興味の抱き方の大切さを感じた。生きているということは、楽しいかな、楽しいかな出会いの人生である。

20230908_164008

|

大阪の登山仲間から昨今ブログが途絶えたが…の電話

 8月に入って、ブログ用の原稿は書いていたのだが、相手側との兼ね合いで9月20日以前にはあげれない内容であった。そこで8月6日に開かれた、私の尊敬する津市在住の旭晋先生の祝賀会のことを書こうと思っていた。しかしこの時、喜びから乾杯のお酒を少し口にしてしまったばかりに、アルコールに弱い私はスナップ写真を撮るどころではなくなった。その後送られてきた記念写真を入れてブログをあげようと思ったら、私の体調調整の悪さからまたそれどころではなくなった。

 78歳、10月の骨折入院以来毎年思わぬ体調不良に襲われる。82歳の今夏、たまには汗をかかなくてはと日曜日の午前に1時間程日陰で草刈りをし、午後も夕方に30分ほど刈った草の後片付けをした。それが良くなかったのか、火曜日の帰りに学園の私の仕事部屋を施錠しエレベーターに乗ったところから記憶が飛んでしまった。翌朝自宅で目覚めた時、何かあったのだとの思いは廻ったが、まさか救急車で昨夕搬送されて病院のお世話になっていたとは知らなかった。

「熱中症」とのことで、夜に自宅に帰ったそうだ。私にとって起点の78歳の春と夏とには北アルプスの雪の上を歩けたのだが、その後の年々の思わぬ大きな疾病を重ねて、今年は汗を少しかく程度と思ったことも含め、「歳を重ねるとは…」このような状況を指すのだとやっと悟った。

 そのようなとき、湯の山の“かもしか亭”森様から届いた楽しいお手紙に、元気をいただいた。

20230830_085352

|

«松阪市内の“味噌煮込みうどん 長助(cyousuke)”