学校法人 大川学園
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キラキラ光る保育園児との2日間

 

9月12日は大川乳幼児保育園の運動会だった。0・1・2歳児のお友だちと保護者の方なのだが、今年は新型コロナウイルスの感染拡大防止でおじいちゃんおばあちゃんには残念ながら遠慮していただいた。保護者と一体型の競技や演技が組まれている。楽しい体験がこの子たちの成長に欠かせられないと、教員が議論を重ねた。言葉で言えば、かけっこ・玉入れ・親子ダンスだが、幾種もの楽しみを重ね合わせ、身に着ける装飾が幾重にも作られ、すべて持ち帰って家でもまた楽しんでもらえる工夫をしてくれていた。

1時間半楽しみ、最後は全員揃ってパチリ。

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前日の11日は久居保育園での誕生会に参加した。最近はギターの弾き語りでなく、マジックを持参してお祝いする。年長のきりん組のお友だちは、最初から何か不思議な仕掛けがあるに違いないという感じで見てくるようになってきた。そしてあとで、あれはこういう仕掛けだったのではないかと問いかけてくる。あっていれば絶賛して褒める。そんな時のしてやったりの自信に満ちた子どもの笑顔が素晴らしい。

園訪問日は、11時30分から13時30分まではどこかの1クラスに入って、給食を一緒に食べ、片付けや掃除、そしてお昼寝のための着替えが済むと紙芝居を私に担当させてもらっている。紙芝居を見る子どもたちのキラキラした目に間近で会え、途中での話しかけへの反応が素晴らしいからである。

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第19回三重県文化賞で表彰を受けて

 

 令和2年8月23日(日)に“三重県文化大賞”を受賞した。これまでの褒章の中で一番私らしい賞をいただけたと感謝している。みえ食文化研究会から、会長であり三重大学名誉教授の成田先生が県に推薦してくださり、審査を経ていただけた。しかも、私が生涯こだわった愛する郷土“三重県の文化の最高賞”である。受賞は、これまでの様々な人たちとの出会いを思い起こさせ、次の世代に繋ぐ思いの方々との出会いを、私が代行してまとめ執筆してきたことを振り返るきっかけをもらった。

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 三重高校の教員になって登山部の顧問を仰せつかり、部員を家に招いて、鈴鹿山系の伝承や宗教や産業、そして峠を含む人々の姿を調べる勉強会をした。彼らとの縁は私が大川学園に移籍してからも今日まで続き、今度は私に調査への意欲を起こさせてくれる存在となった。お陰で38歳に『鈴鹿山系の伝承と歴史』を、70歳になって『大台ケ原山 知られざる謎』(共に新人物往来社)を執筆した。

大川学園に移籍し調理専門学校の教員になり、彼らと業界に返せるもの探しから、大正時代から昭和初期の県内の普段や特別な日の食事生活が空白と知り、日曜日や夏休みに時間をつくり県下各地の古老の幼い時代の生活の聞き書きを始めた。結果67歳で論文集『三重県の食生活と食文化』、そして78歳で『三重県食文化事典』が出せた。

途中40代から60代までは出会った民俗学仲間が行う語彙(方言)や諸職(専門職)や信仰(精神文化)他県内の民俗事象の調査を共に行動し、出版活動も共にした。この流れとは別に48歳の時、県が郷土料理の研究に興味を抱く人々を公募して懇話会をつくり、成田教授と共にコーディネーターに就任した。翌年、20年後にも存続させるべく「みえ食文化研究会」と名称変更し会則も作った。ここで20年間運営委員長をさせてもらった。この会は料理好きな方々が多く、続編も含み2冊に膨大な資料とレジメを掲載した『千彩万彩』を世に出した。そのほか三重ブランド選定委員会や食の安心リーディングビジネス創出事業審査委員長他様々経験させてもらった。

この流れの中でも、ずっと心の底に沈んでいた私の中学2年時の学校行事で起こった“水難事件”をまとめた『1955の夏』と題した著書を、賞をいただく1か月前に出した。

本当に多くの方々に出会い、そして育ててもらったと感謝している。

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コロナで“デイキャンプ”の幼稚園

 7月31日、毎年夏休み中に1泊2日で幼稚園が企画する5歳児の“お泊り保育”が、新型コロナの関係でできなくなった。大川学園の二つの園で、それに代わる“デイキャンプ”が催された。私は、津西幼稚園に参加した。朝9時から登園し、午前はスイカ割や夜のためのかんむり作り等、給食後はお化け屋敷で大勢が大泣き、のち泡遊びや水遊び他遊びで一気に復活、途中、鼓笛隊の練習も入りと中身満載盛。17時30分からホールで、みんな集まっての夕食。

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 18時45分からまだ明るいが運動場でのキャンプファイヤー。南の島の大王とその怪しげな仲間たちの入場で子どもたちも大はしゃぎ。やっと暗くなってお楽しみの打ち上げ花火で大喜び。・・最後に各クラスに戻ったので、顔を出すとどのクラスの園児たちも満足満足の笑顔。20時、家の方々のお迎えで、みんな今日の出来事を一生懸命に報告している。

“子どもたちに何としても満足を”との思いと行動の全先生方に感謝である。

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36人の水難事件を扱った『1955の夏』発刊

 令和2年7月28日、津市中河原海岸で65年前に起こった、36人を亡くした水難事件を扱った記録集“語り伝えたい話『1955の夏』”を伊勢新聞社から出版した。当時私はその学校の中学2年生だった。

16年前に同級生で50回忌を催すとき、津市立図書館に調べに出かけたが資料になるものと出会えなかった。歴史の積み重ねが今になり未来がある。子どもたちに命の大切さや自然への畏敬の念を教える身近に起こった心に響く教材になるのに不思議である。実はこの事件を発端に全国の小中学校にプールが設置され、水泳教育指導書や体育全般の指導書しいては危機管理体制が整えられ、救急法も研究された正の遺産が大きいはずである。そこで、一般的に入手できる当時の新聞や関連執筆物を集め、私の思いや考え方をコメント風に付記して1冊の図書にした。

内容は、50回忌実施までの記録、50回忌に参列した当時の新聞記者の講演録、事件翌日から今日までの新聞記事、同級生の思い、当時の市長はじめ他の方の回想、元教員の日本教育法学会発表報告書他と7章にまとめた。負であれ正であれ地域で起こった歴史や文化の資料を公共団体が残さないと、本気の子弟教育まで消えてしまうとの思いもあって出版した。

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不愉快な思いをさせてしまった保育関係者へのお詫び

   7月21日に新聞に折り込んだ“大川学園ニュース”の中で、“幼稚園・保育園・認定こども園の違い”は、昨年度に続き私が書かせてもらった。その中で、久居保育園は開園の時から教育を60%取り入れ、地域の私立幼稚園修了者と小学校に入ったとき云々と表現した。この一文他が、保育園関係者の方に不愉快な思いをさせたとメールが入った。

 じつは、久居保育園を開設して4年目に入るころ、この保育園は幼稚園的で本来の保育園ではないと10名近くの教員が退職を申し出た。以来、私はトラウマに幾分かかっていたと反省している。残ってくれた教員と新たに入職してくれた教員が、今も当初の目標を追いかけてくれている。

 最近では教育面を随分多く取り入れた保育園が増えている。こうした園と共に保育園の使命を全うしながら更なる充実を目指している。ただ、市政だより等で、所轄が異なる、幼稚園と保育園と認定こども園の違いを市民・県民に明示していただきたいと願っている。福井県では、7年前から県下の私立公立の幼稚園・保育園そして小学校、福祉部と教育委員会が毎月話し合って、5年前に中間報告を出した。そして以降の3年間かけて話し合って答申を出した。話し合いには幼児教育の専門家無藤隆教授(白梅学園大学大学院特任教授)も参加され、県下のすべてを認定こども園として出発させた。保幼小の連携は小学校側に調整指導権を与えたようだ。

 当学園の幼稚園も認定こども園への移行を考えたことがある。しかし、幼稚園は幼稚園、保育園は保育園として本来の目的を求めながら当初の考え方を模索していくことにした。

 今回は、私の思い込みというかトラウマもあって、不愉快な思いをさせた保育園関係者の方のことをメール発信で知った。これは言葉足らずもあったことと反省している。今後はもっとことばや表現に注意をさせていただく。気持ちを害した方々にお詫び申し上げます。

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保育園で瞬間的二蜜の行事

 7月17日、久居保育園で「夏祭り」を行った。園長以下随分悩んだ末の決断で、許可申請が随分前に出された行事である。今年度の5歳年長児たちは、昨年もその前の年も台風で夏祭り体験ができなかった。開設以来、土曜日の午後に内庭に櫓を組んで、にぎやかな提灯のもと保護者と一緒になってにぎやかに催してきた。そこで、子どもたちだけでもと雨天も予想して細かな計画が組まれていた。新型コロナの最中だが、津市の推移状況も考慮し、園長の覚悟も理解できた。私としても最終責任を捺印で示した。 

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 時間を短縮し、内容を工夫しても三蜜引く一蜜の催しとなる。だが、普段のうっ憤発散とも思える園児の生き生きした笑顔は実に素晴らしかった。5歳児のお神輿、3・4・5歳児でのアンパンマン音頭とビューティフルサンデー音頭、1・2歳もゼロ歳も見学。お茶タイムをはさんで、扮装した教員飛び入りでのミニオンのハチャメチャライド、再度お茶タイム。その後、金魚すくい・ヨーヨー釣り・的あてを全員が楽しみ、11時ジャストに終了。その後、各保育室に入って平常の保育に戻った。

11時30分からの給食に私も5歳児クラスで参加したが、長机に2人づつ前向きに座り、お話しなしの給食を全員が守ってくれた。感動である。

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幼稚園の子どもたちと

 数年前から各園で月3日程度、子どもたちと2時間ほど保育室で一緒に過ごしてきた。担任の先生の負担を減らせる何かをとの思いから、給食の時間から帰りの準備までの11時半から13時半の時間帯である。園児たちと一緒に給食を食べ、おかたづけの後の着替え、その後に紙芝居と簡単なマジックで皆と遊ぶ時間をもらっている。おかげで普段の行事の時とは違う、貴重なさまざまな体験をさせてもらえる。

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 園長時代、誕生会にギターを持ち込んでいた。ところがある日、「またギター?」と声がかかった。そこで何かもう一つと考えて始めたのがマジックだった。

以来30数年、街中で園児とあってせがまれるときも何か披露する。自転車に乗った卒園児の2人の男子中学生に路上で、「まだしてる?」「何かできる?」と声をかけられたときは、驚きと嬉しさが入り混じりつつ披露した。共に遊ぶ大切さを教えてもらった。

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インスタを始めた

 6月1日、本日より幼稚園も全園児登園、他部門もほとんどが平常になる。従来に戻るのでなく、新生活様式にどう入るかの段階となった。

 インスタグラムは私の娘たちと就職している孫たち5人とのつもりで始めた。ダンスに夢中の孫の動画を見たくて、娘にアプリを入れてもらったのがきっかけだ。すると思わぬ人が私の投稿した写真に「いいね」を送ってきてくれた。フォロワー14+11人おすすめ10人、その中に市内や関東に住む5人の知人がいて驚く。娘に話すと、お互いの知り合いの関係性からという。しかし、一方で世界中に拡散しているからと種々忠告も受ける。ブログはこれまで毎月2回程度9項目のテーマで13年間発信してきたが、インスタなるものは今回が初めて、聞くと幾分用心してしまう。

若い人たちは、チケット取りや宿泊、商品注文、位置情報から店舗探しと総てスマホを自由自在に使いこなし、感心するばかりである。ここでも浦島太郎になった私がいる。新型コロナでこれまでの日常と違う日々、自宅勤務時にはテレビ会議をはじめついていくのに四苦八苦の私であった。結果、私なりに一歩一歩かというところに落ちつくことにした。

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5月18日から馴らし保育が始まった

 518日、我が学園の幼稚園も本日からで、私も出勤である。といっても幼稚園は馴らし保育で、本日より2週間は女子と男子が交互の登園である。出席番号が付いていないため約半数登園となる。年長児は鼓笛隊の小太鼓のリズム刻み練習にさっそく取り組んでいた。年少と年中児は外遊びに夢中だが、新入園児の中に「おかあちゃん」と泣いている子も23人いる。いつも自分を中心にお母さんがついていてくれたのだから不安なのである。ご両親の愛情の元だがやがて独立心が芽生え、一人とか友達遊びの上手な使い分けがすぐできるようになる。

 子どもたちの声は元気をくれる。幼稚園では、手洗い・消毒や各所に透明ビニールカーテンを駆使して飛沫感染対策等をとっているが、先生方にとって三密は避けられないのが現状だ。子どもたちが話しかけてきたときはもちろんだが、泣いている子は抱き上げ、あい対応して目を見てのにこやかな話しかけが必要だからである。

 朝暫らくの時間は間隔も離れるが、お絵かきや製作遊びでも、遊びの時間は密着となる。幼稚園や保育園で先生方は、さまざまな注意と覚悟をして日々取り組んでいてくれるので頭が下がる。

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7月下旬出版予定の原稿の初校が届いた

 513日、伊勢新聞社からこの夏に発刊予定の図書の初校が写真も割付されて届いた。今回の原稿は、私の中学2年生の時に起こった水難事件の資料集で、そこに私のとらえ方を付加したものである。これまでの食文化系とも郷土の山の歴史や伝承系とも民俗学系とも違う。実に迷いに迷いながら、長い年月をかけてここまで来た。ある程度まとめた段階で、2度も長い空白を作った。中身は一般的資料を集めたものなのだが、重く苦に近いものが時として襲うと中断していた。表現力というか文章力の弱さもある。

 歴史的に重大なことでも、時として忘れ去られようとすることがある。私は縁ある者の一人として、これを次の世代に受け継いでもらいたいとの思いでこの作品に取り組んだ。重たいのは、この県の歩んだ一面から何か計り知れない圧迫感を感じたからである。最後の仕上げとしようと取り組めたのは、大腿骨骨折で104日の入院経験からくる人生の残りを悔いのないようにとの決断だ。タイトルは『一九五五の夏』とした。

 コロナで自宅勤務の私が、教職員が出勤している中、本来すべき学園勤務の貴重な時間を郷土の次世代に返せる歴史と文化に関わる原稿と理由付け、校正に取り組まさせてもらった。同月16日、新聞社に渡す予定である。

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